あくまでも、「アホ」な私の人生観・・・なので、
あまり気にせず、参考までにということで。よろしくおねがいします。
>未来のことを考えたり、未来のために努力したり、
>がんばったりしても意味がないということでしょうか?
一応、簡単な結論を言っておきますと、
人間の未来というのは確定的に決まっています。
未来なんて、ほっといても向こうからやって来るです。
要するに未来は変えられないんです。
「人事を尽くして天命を待つ」のではなく、
「天命を信じて人事を尽くす。(今目の前の人・もの・ことを大事にする)」
私たちは学校教育で「為せば成る、為さねばならぬ
何事も・・・」、
努力が足りないからできないんだ、
自分が目標を持って必死な思いでやれば
必ずそういうふうになるんだというふうに教わってきたんですけど、
どうもそうじゃないと思っています。
じゃあ〜今どうすれば良いか?
努力とか頑張るとかで未来を良くしようとしても、かなり無駄。
何かをやろうとするとき執着のない喜びの気持ちでやれば、
到達されるのですが「ねばならない」というような気持ちで行えば、
かえって実現できない。15%の顕在意識が働くだけなんです。
でも85%の潜在能力は、「楽しさ」に反応するんです。
だから「楽しい」という意識をもって、加えて言葉を発すれば、
それに見合った現象が自分の手元にやってくる。
執着が強い人には、なかなか幸せになれないということです。
「そうならなくていいけど、なってくれたら楽しい」と思うこと
(執着をなくすこと)が、宇宙とつながることなのです。
執着を強く持っている間は、宇宙とはなかなかつながりません。
宇宙の無限なる支援を得たいと思うのならば、執着を捨てること。
「そうでなくてはならない」というこだわりや、とらわれを捨て、
そこからいかに切り離されるかということがポイントであるようです。
「こうであらねばならない」「どうしてもこうしたい」
「私はこうでなければならない。家族もこうでなければならない。
社会も、宇宙もこうでなければならない」という
「ねばならない」をたくさん持っている人を
「ねばねばした人」と私は呼んでいます。
「ねばねばした人」=「粘着力の強い、執着の人」ということです。
そして、ねばねばと執着している人は、
なかなか自由に気持ち良く上に伸びることができず、
そのために天や宇宙と手を結ぶことができない、
という構造になっているような気がします。
過去のことをクヨクヨする必要もないし未来のことを心配する必要もない。
ただ「念」を入れて生きていけばよい。
「念」という字は「今」の「心」と書く。
つまり今、目の前にいる人、目の前に起きていることを大事にして
生きていけばよい。
力を抜いて生きること。努力して、頑張って、執着して
「そうでなければイヤだ』と思っている時はそうならないんですよね。
「こうでなければならない、ああでなければいやだ、と思って始まる苦悩。
こうなったら嬉しい、ああなったら楽しい
と思って実現する不思議、訪れる奇蹟。」です。
>思いを込めてブラスイメージをつくり、
>良い未来を呼び寄せようとすることも無意味なのでしょうか?
無意味だと思ってます。
今日寝て起きたら、いつですか?
今日寝て起きたら明日って答える人がけっこう多いんですけど。
今日寝て起きたら今日。今日なんです。明日って永久に来ません。
実は明日という日は永久に存在しないんですよ。
私たちは、長い時間経過の中で、明日も明後日も生きているように思うけれども、
実は今という時間しか生きていないんです。
四次元的な話をしますけど、
私たちの目の前には過去も未来も存在していません。
存在しているのは現在、今この瞬間瞬間の刹那だけ。
その刹那の連続しかない。だから未来を心配することも、
未来にプラスイメージの思いを込めることも無意味だ、
過去のことを心配し、悔いることも無意味だということです。
そんな暇があったら今目の前にいる人を大事にしなさい、ということだけなんです。
人生はものすごくシンプルで、過去のことを心配する、悔やむ、
未来のことを一所懸命どうやって正しい道を選択しようかっていう人は、
正しい道を模索しているのかも知れないけど、結局、
「今」を大事にしてないんです。
そういう生き方ではなくて、今目の前の事と人を大事にしてゆけばよい。
念じなさい、念じなさい、そうすれば未来は自分の思うとおりになりますと、
自己啓発セミナーなどは教えるんですけど、
念じることによって未来が自分の思い通
りにはならないと思ってます。
それは、この念という言葉の中にはまったく存在しません。
なぜそれが言い切れるかっていうと、今の心としか書いていないからです。
私たちが考えることは念を入れて生きるっていうこと。
念という文字は、「今」の「心」と書きます。
今目の前の事と人を大事にすること、それが念を入れるってことです。
簡単なことなんです。
私たちは人生をどう生きていくかってことについて、
ああだこうだ考えることは全然ない。
今、目の前の事を大事にし、目の前の人を大事にする、それの積み重ねだけ。
それしか私たちはできないということです。
それ以外に過去に参加することはできない、
昨日の人を抱きしめることはできない。
明日来る人のことを抱きしめられない。
今、目の前にいるひとだけを抱きしめることができる。そういうことです。
人生がこれほどシンプルで楽であることを分かってしまうと、
なんにもエネルギーをとられる必要がないから、
目の前の事と人とを大事にしていけばいい。
今の心とは、今目の前の人を大事にし、目の前の事を大事にすることです。
『今目の前の「人」「こと」「もの」を大事にする』とは、
「不平不満」「愚痴」「泣きごと」「悪口」「文句」は、言わない
口からはいつも「嬉しい」「楽しい」「幸せ」「愛してる」「大好き」「ありがとう」
が発せられ、笑顔と優しさにあふれていること。
その「明るい人」(「光り」)が歩み入って行くところは、
すべて「光り」に満ち、「明るい」ところになってしまうのです。
学校教育の中でも、がんばれがんばれ、
未来を自分の力でつくりあげなさいって教えられるけれども、
未来のことは考えなくていい、未来のことを考えて心配している暇があったら、
今目の前の人と事を大事にするだけ。
私たちの目の前にある人生というのは、今しかないんですね。
>そして、死ぬことも不幸なことではないのですか?
全く不幸なことではないですね。
生まれた瞬間に、もう死ぬときが決まっている、ということです。
死ぬ ときが決まっているということは、
生まれてから死ぬまでのシナリオが全部決まっている。
要するに寿命です。死んで生まれ変わるだけです。
で、「幸」や「不幸」というのは、
すべてそう思う人が決めていることであり、
宇宙的に「これが幸で、これが不幸である」という意味での
「幸」や「不幸」は存在しないと思います。
>生きる目的は何なのですか?
人生とは、魂のお勉強道。
全ての生活、全ての経験は魂を向上させるためにあります。
人間は幸せになるために生れてきたので、
困難や問題は神からの課題であり、それを乗り越えるごとに魂が向上する。
それには人生が楽しくなるように、物事の考え方を変えていけばいい。
すべての辛いことや嫌なことは、
自分の考え方を変えれば、良い方向へ転換できるんです。
それが魂のお勉強だと思っています。
そして人間の生きる目的というのは、
決して人を蹴落として一番になることではなく、
魂を向上させることではないでしょうか。
それはまず、喜ばれる存在になることではないかと思ってます。
もっと究極は「感謝できる人間」になることだと思っています。
「人間」とは、人と人との間で生きています。
だから「人間」と書く。頼まれて初めて、その人の存在感があるのです。
人生の目標は何かを達成することではなく、喜ばれる存在になることなんです。
頼まれやすい人。頼まれやすい顔(人相を良くする)をしていることです。
感謝される。喜ばれる。
「他の存在から喜ばれる存在」になること。
そしてその上の段階が、あらゆることに感謝できる魂になること。
第1段階は「この世が修行の場である」という認識。
第2段階として、同じ現象を目の前にしたとき、
「実はこの世は喜びの場なのではないか」ととらえることもできます。
第3段階というものは、
「この世は修行の場でもなく、喜びや幸せの場でもなく、実は感謝の場である」
ということに気が付くこと。
それが”魂”のプログラム。
(であり、人間となって生れた目的ではないでしょうか。)
私はガンになったことを、闘うことも、我慢して耐えることも、逃げることもせず、
そのこと(そのことによる未来も過去も)を、あまり気にせず楽しもう!
さらに感謝しようと思っています。